<話のネタ> 秘すれば花?

先日、ある本の『秘すれば花』という箇所を読んでいて、ちょっと引っかかる場所がありました。どういうことが書いてあったかを大ざっぱに纏めると以下の通りです。

①自分の中で消化し切れていない失敗談や苦労話は言うべきではない。消化し切れていて笑い話として話せるのであれば良いが、怒り・悔しさ・情けなさ・恨みなどが残っている状態で告白すべきではない。そういう場合は友人や身内にではなく電話相談などで匿名で相談すべき。

②友人や身内に自分の弱い部分や醜い部分はあまり見せないほうが良い。自分で消化し切れていない時は、何もかもは言わず、ドロドロした部分は隠しておいて時間が解決してくれるのを待つ。

③不完全で欠点の多い自分をありのままにさらけ出して認めてもらおうと考えるのは不遜極まりない。できるだけそうした自分を見せないで少しでも良く見せようと努力することが人としての品性を高める。いかに表に出さないよう努力するかが重要。

これを読んでいて「う~ん、例えば自分の親がこういう考えの人だったらちょっと子供としては辛いかも。秘密にしすぎて自分でその辛さが結局消化できずに行動や言動ににじみ出てしまったら『秘すれば花』どころか『秘すればサボテン』になってしまうじゃん。」と思いました。これらは仕事やあらゆる付き合いの場で知り合う人やあまり親しくない親戚には当てはまるかもしれませんが、家族だったらドロドロした部分も受け止めてあげようと努める、そういう自分の懐を広く持つよう努力してあげることが愛じゃないの?と思ってしまいました。もちろんそれに甘えず自分自身で消化できる容量を上げるべく努力することも大事ですが、その容量を超える辛いことだって人生多々あると思います。どこまでが自分自身で消化可能で、どこから先は無理かというその「やばさ」を感じ取る直感を鍛え、全部自分で抱え込まずに、そういう時にしかるべき相手にしかるべき形で助けを求められる能力も同時に大事ではないのかと思いました。本当に辛いときは、品性もへったくれもありません。

家族だけでなく、親戚や友人に対しても、相手が本気で自分に何かを相談したいというシグナルを発していると感じ取れば、可能な限りそれを受け止めるよう努力してきたつもりです(こちらからはよほどのことがない限りは聞かないですが)。逆に、今までの人生を振り返ると、私がそういうことを相手に求めてしまった場合もなくはないので、そういう自分が否定されたような気がして少し落ち込みました。なぜなら、さらけ出すのにだってものすごいエネルギーがいるからです。もちろん相手やタイミングは慎重に選びますが、自分のことをわかって欲しいと思う相手に対してそういう努力をするのってダメなの??という疑問をこの箇所を読んだ後に抱き考え込んでしまいました。

しかし留学生活を振り返ってみると、アメリカ人は著者が挙げたような考えを持つ傾向が強いんじゃないかと思いました。パーティーの場などでいろいろな人と会話しましたが、「まあいろいろあって大変だったけど今はハッピーよ、アハハ」という感じで明るく笑っている人が結構いたのが印象に残っています。それでこちらが「それって笑って流せる話か?」と固まってしまうようなことがあったりして…。その一方でカウンセリングを行うセラピスト(臨床心理士のような人)への需要が多いという現実があります。この現実をどう受け止めればいいのでしょうか?

留学中開講されていたセミナーで、自分の家の家系図をつくって分析することにより今の自分について考えるというものがあったのですが、各参加者の告白話の場では、子供の頃父親が自殺したとか他国から移民してきて苦労したとかいう重たい話が結構あって、そこだけよどんだ空気が漂っていました。過去を冷静に見極めるのは辛いけど、一緒にそのよどんだ空気を共有してくれる仲間がいたほうがいいのだろうな、と思いました。同時に、表も裏も全て受け止められる、そういう懐の広さのある自分を目指したい、と思いました。
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by coast_starlight | 2007-10-08 22:13 | 話のネタ


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