2007年 10月 22日 ( 1 )

<日々の出来事> 誕生日

a0079741_3373886.jpg10月21日は私の誕生日でした。でもやったことというと、午前中にフランス語の検定試験を受けに行ったくらいで(これ自体大きな用事と言えなくもないですが)、その後は自宅でテレビを観たり昼寝したりネットのゲームをやったりと極めて地味な一日を過ごしていました。金曜日に職場の有志の方々が誕生日会を開いてくださったこともあり、誰も何も祝ってくれないという寂しい状況ではないのですが、誕生日が週末に当たってしまって予定がないと、普通の予定のない週末とは違う気分になってしまいます。いっそ平日に誕生日があったほうがよかったかも…。留学中なら他の人がそうしていたように「○日は自分の誕生日だから××でパーティーをやります」といって自分がホストになって何か企画しようという気も起こるのですが、ここは日本だし…ということで人を誘うのもためらってしまい、結局何もせずじまいでした。今週末に限らず10月は今回のフランス語の試験のために毎週末ずっと家で勉強していたのであまり出歩いておらず、平日も徒歩で会社に通っているので、今住んでいる本郷から新宿に行くのさえも遠く感じられるほど最近の活動範囲は狭いです。でも狭いと狭いなりに見えてくるものがあって、それはそれで面白いかもしれません。

ところで今日受けたフランス語の試験では作文があったのですが、こういう試験では手書きなので文章の構成をある程度頭の中で考えた上で書かなければなりません。今は職場でも家でも文章はパソコン上で打つことが多いため手紙を書く機会がめっきり減ってしまいました。でも昔の蓄積があったのか割とうまく文章をまとめることができ、試験もうまくいったような気がします。試験では下書き用紙ももらえましたが結局ほとんど使わずいきなり書いていました。というのも中高生時代は、今と違ってメールもなかったためよく手紙を書いており、その頃から頭の中で考えをまとめてから書き始めることには慣れていたような気がするのです。授業中ノートの紙を破ってクラスメートにあれこれ書いて渡したりというのもよくやっていたし、頭の中で考えをまとめてから文章を書くという機会が今までよりもはるかに多かったような気がします。大学生の頃もまだインターネットがそれほど普及していなかったので手紙もよく書いていたような気がしますが、社会人になってからはなかなか時間がとれないということもあり、人に手紙を書く機会もめっきり減ってしまいました。

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今週末ふと自宅にある「ノルウェイの森」を読み返していました。この本には主人公のワタナベ君や直子、玲子さんの手紙のやりとりが何度となく出てきます。それもモノによってはかなり長い。初めてこの本を読んだのが大学2年か3年生のときですが、その手紙のやりとりを読みながら「こういう手紙を書くシチュエーションって一体…自分にはまずないかも」と思っていました。まず自分にはそこまでの文章力と気力がありません。小説でありながら読んでいると手紙の文面からそれを書いていたときの登場人物の気持ちがひしひしと伝わってきますし、それをうまく作品の中に取りいれ纏め上げた村上春樹の文章力はすごいと改めて感心してしまいました。手紙が出されるタイミングも、すごく早いときもあれば数ヶ月後の時もあったりして、それがストーリー展開にうまく織り込まれています。返事をもらい次第急いで返信を書き速達でポストに投函したという箇所が何度か出てくるのですが、メールだと一瞬で送信されてしまうし…今速達で誰かに何かを伝える目的で手紙を出さなければならない状況ってどういう状況があるだろう?と思ってしまいました。

宮本輝の「錦繍」という、男女の往復書簡そのものが小説になっているものもあります。この作品が発表された時期は「ノルウェイの森」より少し前の1982年です。離婚した男女が10年後偶然旅先でばったり顔を合わせたことがきっかけで女のほうが男に手紙を綴ったというところから話が始まるのでうすが、「こういう設定って現実にあるのか?」と思いつつも、相手と面と向かっていないがゆえに相手と一緒にいたときには伝えられなかった深い部分まで話が及んで整理された状態で相手に状況を伝えられるんだろうな、と思いました。でもこういう手紙って誰のために書いているのでしょうか?私は相手のためじゃなくて、結局は自分のために書くんだと思います。

「長い手紙」から私が真っ先に連想する小説は夏目漱石の「こころ」です。主人公が敬愛する「先生」が、自殺を図る前に主人公に宛てて書いた手紙で第二部の全てが構成されています。しかも第一部の倍くらい量があったと思います。下宿人同士で大家の娘を取り合って自分が恋敵を欺き相手を自殺に追い込んでしまったことによる苦悩をつらつらと書いているところを読んでいると、初めて読んだときは「何てネクラな小説なんだ」と思いつつも、年を経るにつれ「この本が教科書の題材にも指定され長く読み継がれている現実がわかるような気がする」と思うようになりました。この本を初めて読んだのは高校生の頃ですが、長い休みやふと物事を考えるときには読み返す作品の一つです。昨年留学中の夏休みにも読んでいました。

他に私が個人的に好きなのはカミユの「異邦人」で、フランス語をやろうと思ったもともとの動機の一つもこれを原語で読んでみたいというものでした。最近やっと読めるレベルにまでなってきましたが、やはり原語で読むほうが主人公の淡々とした性格(に由来する情景描写)や苦悩が手に取るように伝わってきます。自分の価値判断の軸と世の中のそれがかなりズレていて、それが自分の命をも奪うという状況に陥るのですが、そのズレに起因する不条理と葛藤しつつも自分の軸をぶらさない主人公ムルソーの存在は私から見て迫力があります。ムルソーは殺人で逮捕され死刑になり最後に処刑されるのですが、処刑の前日司祭が「あなたには自分の気持ちが見えていない。私はあなたのために祈ります。」と言った後ムルソーが「お前に何がわかるんだ!」と猛然と怒り出す最後のシーンはそれを象徴していると思います。自分の信じる真実に対して忠実なのです。

ちなみに「こころ」と「異邦人」はインターナショナルスクールに通っていた頃授業で読まされた本です(日本語で)。ここの授業では日本の教科書は使わず、作品を全部読まされ全体的なテーマについて議論し(といっても生徒は私一人でしたが)エッセイを書いたり、別のクラスの人を相手に例えば自然派文学についてプレゼンをしたりという非常にユニークな授業でした。事情があり私はこの学校を途中で辞めたのですが、最後までやっておけばよかった…と大人になってから後悔しています。

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誕生日の日は一人でこんなことを考えていましたが、来週の日曜日にはフランス語の試験の続き(口頭試験)があるので、今週はその準備に励もうと思います。


※21日中にアップロードするつもりだったのですが、どういうわけか夜になってひどい頭痛を起こしてしまい、夜の8時頃からこの時間まで寝ていました。考え事をしていると頭痛がすることがごくたまにあるのですが、こういうときは寝るしか直す方法がありません。
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by coast_starlight | 2007-10-22 03:42 | 日々の出来事