自分のことって、意外と自分でわかっていないような気がします。自分は何が好きで何がキライか、どういうことに心を踊らせ関心を持つのか…。その時には「何となく」好き/キライと思ったものでも、何年も経ってからその「何となく」の根拠が鮮明になり、「あ、そういうことだったのか!」と気づくこともあると思います。
例えば、最近自分のことで一つわかってきた決定的なことは、自分のことを「おまえ」と呼ばれるのが実はとってもイヤだということです。過去に付き合っていた人で私のことをそう呼ぶ人がいたのですが、その時はあまり深く考えていなかったものの、最後の最後で直感的に「この人とはダメだ」という判断をし別れました。その直感の根拠の一つがどうやら私の呼び方だったということが、別れてからだいぶ経った最近になってわかりました(それだけではないですが)。名前かあだ名(あれば)か「あなた」のほうがいいです。たかがそれくらいのこと、と思うかもしれませんが、私にとっては重要だったようです。振り返ると、男友達の中にも、私のことあるいは他の女友達、あるいは彼女のことを(少なくとも私のいる前で)「おまえ」と呼ぶ人は存在しません。今週末乗った飛行機で60代前半くらいの夫婦が隣の席だったのですが、男性が女性を「おまえ」と呼んでいたのが何か聞いていてイヤで、何でそういう自分がいるんだろう…と考えると納得がいきました。家の中ではいいかもしれないけど、飛行機や電車のパブリックスペースでは誰が聞いているかわからない、自分も気をつけなきゃ、と思いました。人によっては、自分が近い関係にあるという親しみをこめて「おまえ」と言っているつもりの人もいるのかもしれませんが、私はどうもそこは受け入れられないようです。もっとも、今の職場にも目下の人を「おまえ」呼ばわりするオジサンはたくさんいます。また関西では男性に「そんなんおまえ、…………、だからおまえ、………」という口調で、特に誰に向かってというわけでなくても文の切れ目で「おまえ」を挟む人がいます(中学の時の先生にもそういうオジサンは結構いたなぁ)。そういうのは自分個人に宛てられたメッセージとして捉えないので別に気にならない(というか無視する)のですが、もしこの人と自分が仮に対等な立場だったとして、プライベートで仲良くはなれないかも…と思います。 他にも私が気づいたことは、 ・美術作品は現代のものよりもちょっと古い18~19世紀のものくらいがどうやら好きらしい ・インテリアは最近できている高級外資系ホテルに多いモダンなこげ茶色の色調よりも、ナチュラルテイストの木目調が好きらしい ・自分の好きな色は青緑っぽい色らしい などいろいろあるのですが、いずれも旅行時自分がどういうところに行きたがる/自分がどういうものを買う傾向があるか、どういうホテルに泊まったときに居心地が良かったと感じたか、などなどを後から振り返ることによりわかってきたことです。こういうことがわかれば、以後の自分の行動予定にこういうことを反映させることにより、物事の素早い判断につながったり心理的負荷が減ったりするかもしれません。私の場合、自分に対する気づきを得ると一筋の光明がもたらされたかのような気分になり、ちょっと日々の生活にやる気が出てくることが多いです。 このような気づきを得るためには、乱読や気まぐれな外出・旅行をすることが必要かもしれません。ここで大事なのは、一人ですることだと思います。同行者がいると(相手にもよりますが)相手の行動・態度に対して自分がどういう行動・態度をするかという反応的な自分しか表面に現れてこないのではないかと思います。一人だと、自分がやりたくないことはあえてしないでしょうから、自分の傾向がよくわかります。私が一人旅をすると、朝は怠けてダラダラしてしまうことが多いです。同行者がいれば割と朝早くから活動を開始するものの、一人でいると「ま、いっか」と思ってしまいがちです。日々の生活でも、何か自分を鼓舞するものがないと一人ではキビキビと動けない自分の「ダレ癖」を実感する→「これじゃダメだ」と思ってちょっとがんばる→疲れて(イヤになって/飽きて)休む→はじめに戻る、の繰り返しです。 「気づき」はそのような日常に突然変異をもたらしてくれます。 #
by coast_starlight
| 2007-11-04 23:29
| 私のはなし
先週はどういうわけか機嫌が悪く、それが自分でもよくわかりました(今週は普通ですが)。おまけに日曜日にあったフランス語の口頭試験はボロボロの出来で、足切り点には引っかからなかったと思うものの、予想以上に緊張して頭の中が真っ白になった自分が情けなくて落ち込むほどでした。でも日曜日までの不機嫌は何が原因なのかがよくわからず、まさに「虫の居所が悪い」という表現がぴったりでした。特に機嫌が悪かった木曜日の夕方には、部下にも「ちょっと私は今日は特に機嫌が悪かったんだ。だからあなたにムカつきつつも八つ当たりしないように心がけていたんだけど、気づいた?たぶんあなたは悪くないから。私が同じことされたらイヤだから隠さなきゃと心がけていたんだけど…ゴメンネ。」などと弁解していました。私の上長は空腹時に機嫌が悪くなる人で、それはご本人も自覚しておられます。従って私の机の引き出しにはクッキーなどのお菓子が常備されており、夕方になったら「まぁ、これでもどうぞ」といってお菓子をお出しすることがあります。また職場にはコアラや恐竜、ライオンやイモムシなど出張した人がオミヤゲに買ってきたぬいぐるみも各自の机に飾ってあります(人によってはそれが作業スペースを圧迫しているくらいなのですが)。これは触って気分を静めることができるので重要なアイテムでもあります…ある意味、変わった部署かもしれません。
上記の件で思いつく原因としては、以下の二つが挙げられます。 ① カルシウムが足りない ② 鉄分が足りない ③ 移動が足りない ①は牛乳やチーズなどの乳製品をとるよう心がけるしかありません。②は、ほうれん草やレバー、ひじきなどを食べていないという意味ではありません。足りないのはキハ38系とかスロネフ25形とか…そっちのほうです。近々小湊鉄道にでも乗りに行こうかと思います。 ③はどういうことかというと、先月南アフリカに行って以来一ヶ月以上出張・遊びを含めてどこかに泊りがけで行くということがなく、日帰りでも一度茨城に出張に行っただけでそれ以外は東京23区外はおろか山手線の外にも出ていないのです…。これは非常に珍しい。留学中も毎月一泊二日の小旅行も含めればどこかに出かけていたし、今の部署は国内・海外共に出張が多い部署ではあるのですがなぜか今月は何もありませんでした。11月はあれこれ行く予定があるので、10月よりは気持ちよく過ごせると思います。 でも、最も原因として考えられるのは、留学していた頃と比べて神経使っているからだろうなぁ…と思います。大企業ゆえ、いろんな人の立場を考えて、何を・どういうタイミングで・誰に・どこまで・どういう手段で(メール・電話・直接など)伝えるかをいちいち考えなければなりません。加えて、何を・どういうタイミングで・誰に・どこまで・どういう手段で伝えないかまで考えなければならず、このバランスが非常に難しい。時々何でそこまでしなければならないのか、と思ってしまいます。留学していた頃は同級生か先生かくらいしか立場に違いがなく、そういう意味では今よりはるかに楽だったなぁと思います。懐かしいなぁ。 #
by coast_starlight
| 2007-10-29 23:37
| 日々の出来事
その1をアップロードしてからだいぶ時間が経ってしまいましたが、思い出して書いてみることにします。
----- 黒人居住地ソウェトを観光するには、ガイドつきのツアーで行く必要があります。ネルソン・マンデラの家とヘクター・ピーターセン博物館は観光客が多く訪れるので安全に観光することができますが、それ以外の場所にガイドなしで行くのは危険すぎます。もっとも、最近は国際協力NGOなどがソウェトのお宅ホームステイ体験ツアーなどをやっていたりするそうですが…。今回は時間がなかったのでマンデラの家と博物館のみ訪れました。マンデラの家では、一定人数が集まるとガイドツアーが始まります。それまでは見学できないので人数が集まるのを待たなければなりません。ただツアーといっても家全体がかなり狭い(2LDK、60平米くらい)ので15分くらいで終わってしまいます。この家は狭いと言っても、当時のソウェトにあった他の家と比べれば立派なほうだったと思います。マンデラは逮捕される1963年までここに住んでいました。獄中生活から開放されてこの家に戻ったときは英雄扱いでマスコミが押し掛けてきたため、わずか10日足らずで他の場所に移ったそうです。今もマンデラは健在で、ヨハネスブルグ郊外の高級住宅街に居を構えています(そこの前も通った)。 次に向かったのがヘクター・ピーターセン博物館という、1976年に起こった大規模な反アパルトヘイト運動の博物館があります。この年、黒人が学校教育で強制的にアフリカーンス語を習わされていたことに対し、抗議のデモが起こりました。アフリカーンス語はオランダ系移民、つまり白人の言語であり、黒人にとってこれを強制的に習わされることは屈辱であったのです。このデモに対して警察当局は発砲するなどして鎮圧しようとし、その最初の犠牲者になったのがヘクター・ピーターセンという13歳の少年でした。写真で抱きかかえられているのがその彼です。しかしこのデモがあってから実際にアパルトヘイトがなくなるまでに15年以上の年月がかかりました。 お昼前にソウェトを後にして向かったのはライオンパークというサファリパークです。本当はもっと本格的なサファリパークがあるのでしょうが、お手軽な観光客向けの(?)場所だと思います。ここに到着した頃ちょうどお昼になったのでガイドのデニスさんとお昼を食べました。デニスさんには奥さんと高校生の息子が2人いるそうです。息子さんは2人ともダーバンの全寮制の学校に入れているとのことでした。話を聞いていると彼は黒人の中でも割と良い暮らしをしているほうではないかと思えました。何でもサントン郊外に一軒家を買い、BMWを2台所有しているそうで、休みにはヨーロッパや東南アジアに旅行し、奥さんも今は働かなくていいくらい生活に余裕があるそうです。じゃあ私のガイドもやらなくていいのでは?と突っ込みたくもなったのですが、やっぱり定期的な収入源は必要なのでしょう。ちなみにデニスさんは株で儲けたと言っていました。南アフリカは経済が良くて、特に通信系の会社の株で儲けたと言われていたような気がします。「株で大事なのは、一度買ったらしばらくは株価をチェックせず放っておいて、何ヶ月か経ってからチェックすることなんだ。」確かに…でも経済が好調な中興国的な考え方かも、と思いました。ライオンパークでは、ライオンの子供にさわることができます。 ライオンパークに行った後プレトリアに向かいました。プレトリア市街の中心部にある広場には、どういうイベントがあったのかわかりませんが多くの人が群れを作っていました。でもズールー語で何をいっているのかさっぱりわかりませんでした(つまり、集まっているのは基本的に黒人のみ、ということ)。同じ国でも言葉の壁があるんだ…と思いました。その後高台にある大統領府に連れて行ってもらいました。天気が良かったので眺めも非常に良く、ここだけは観光客が多く普通に一人で歩いていても問題ない感じでした。プレトリアからホテルに戻ったのは夕方5時頃でした。その後は一人だったのでホテルに直結するショッピングセンター(くらいしか一人で行けるところはない)にお惣菜を買いに行き、一人で部屋で食べていました。 ----- 次の日はまた国泰航空に20時間乗り、成田に戻りました。途中することがないのでひたすらお酒を飲んで寝ていました。 #
by coast_starlight
| 2007-10-24 23:25
| 旅行
10月21日は私の誕生日でした。でもやったことというと、午前中にフランス語の検定試験を受けに行ったくらいで(これ自体大きな用事と言えなくもないですが)、その後は自宅でテレビを観たり昼寝したりネットのゲームをやったりと極めて地味な一日を過ごしていました。金曜日に職場の有志の方々が誕生日会を開いてくださったこともあり、誰も何も祝ってくれないという寂しい状況ではないのですが、誕生日が週末に当たってしまって予定がないと、普通の予定のない週末とは違う気分になってしまいます。いっそ平日に誕生日があったほうがよかったかも…。留学中なら他の人がそうしていたように「○日は自分の誕生日だから××でパーティーをやります」といって自分がホストになって何か企画しようという気も起こるのですが、ここは日本だし…ということで人を誘うのもためらってしまい、結局何もせずじまいでした。今週末に限らず10月は今回のフランス語の試験のために毎週末ずっと家で勉強していたのであまり出歩いておらず、平日も徒歩で会社に通っているので、今住んでいる本郷から新宿に行くのさえも遠く感じられるほど最近の活動範囲は狭いです。でも狭いと狭いなりに見えてくるものがあって、それはそれで面白いかもしれません。
ところで今日受けたフランス語の試験では作文があったのですが、こういう試験では手書きなので文章の構成をある程度頭の中で考えた上で書かなければなりません。今は職場でも家でも文章はパソコン上で打つことが多いため手紙を書く機会がめっきり減ってしまいました。でも昔の蓄積があったのか割とうまく文章をまとめることができ、試験もうまくいったような気がします。試験では下書き用紙ももらえましたが結局ほとんど使わずいきなり書いていました。というのも中高生時代は、今と違ってメールもなかったためよく手紙を書いており、その頃から頭の中で考えをまとめてから書き始めることには慣れていたような気がするのです。授業中ノートの紙を破ってクラスメートにあれこれ書いて渡したりというのもよくやっていたし、頭の中で考えをまとめてから文章を書くという機会が今までよりもはるかに多かったような気がします。大学生の頃もまだインターネットがそれほど普及していなかったので手紙もよく書いていたような気がしますが、社会人になってからはなかなか時間がとれないということもあり、人に手紙を書く機会もめっきり減ってしまいました。 ----- 今週末ふと自宅にある「ノルウェイの森」を読み返していました。この本には主人公のワタナベ君や直子、玲子さんの手紙のやりとりが何度となく出てきます。それもモノによってはかなり長い。初めてこの本を読んだのが大学2年か3年生のときですが、その手紙のやりとりを読みながら「こういう手紙を書くシチュエーションって一体…自分にはまずないかも」と思っていました。まず自分にはそこまでの文章力と気力がありません。小説でありながら読んでいると手紙の文面からそれを書いていたときの登場人物の気持ちがひしひしと伝わってきますし、それをうまく作品の中に取りいれ纏め上げた村上春樹の文章力はすごいと改めて感心してしまいました。手紙が出されるタイミングも、すごく早いときもあれば数ヶ月後の時もあったりして、それがストーリー展開にうまく織り込まれています。返事をもらい次第急いで返信を書き速達でポストに投函したという箇所が何度か出てくるのですが、メールだと一瞬で送信されてしまうし…今速達で誰かに何かを伝える目的で手紙を出さなければならない状況ってどういう状況があるだろう?と思ってしまいました。 宮本輝の「錦繍」という、男女の往復書簡そのものが小説になっているものもあります。この作品が発表された時期は「ノルウェイの森」より少し前の1982年です。離婚した男女が10年後偶然旅先でばったり顔を合わせたことがきっかけで女のほうが男に手紙を綴ったというところから話が始まるのでうすが、「こういう設定って現実にあるのか?」と思いつつも、相手と面と向かっていないがゆえに相手と一緒にいたときには伝えられなかった深い部分まで話が及んで整理された状態で相手に状況を伝えられるんだろうな、と思いました。でもこういう手紙って誰のために書いているのでしょうか?私は相手のためじゃなくて、結局は自分のために書くんだと思います。 「長い手紙」から私が真っ先に連想する小説は夏目漱石の「こころ」です。主人公が敬愛する「先生」が、自殺を図る前に主人公に宛てて書いた手紙で第二部の全てが構成されています。しかも第一部の倍くらい量があったと思います。下宿人同士で大家の娘を取り合って自分が恋敵を欺き相手を自殺に追い込んでしまったことによる苦悩をつらつらと書いているところを読んでいると、初めて読んだときは「何てネクラな小説なんだ」と思いつつも、年を経るにつれ「この本が教科書の題材にも指定され長く読み継がれている現実がわかるような気がする」と思うようになりました。この本を初めて読んだのは高校生の頃ですが、長い休みやふと物事を考えるときには読み返す作品の一つです。昨年留学中の夏休みにも読んでいました。 他に私が個人的に好きなのはカミユの「異邦人」で、フランス語をやろうと思ったもともとの動機の一つもこれを原語で読んでみたいというものでした。最近やっと読めるレベルにまでなってきましたが、やはり原語で読むほうが主人公の淡々とした性格(に由来する情景描写)や苦悩が手に取るように伝わってきます。自分の価値判断の軸と世の中のそれがかなりズレていて、それが自分の命をも奪うという状況に陥るのですが、そのズレに起因する不条理と葛藤しつつも自分の軸をぶらさない主人公ムルソーの存在は私から見て迫力があります。ムルソーは殺人で逮捕され死刑になり最後に処刑されるのですが、処刑の前日司祭が「あなたには自分の気持ちが見えていない。私はあなたのために祈ります。」と言った後ムルソーが「お前に何がわかるんだ!」と猛然と怒り出す最後のシーンはそれを象徴していると思います。自分の信じる真実に対して忠実なのです。 ちなみに「こころ」と「異邦人」はインターナショナルスクールに通っていた頃授業で読まされた本です(日本語で)。ここの授業では日本の教科書は使わず、作品を全部読まされ全体的なテーマについて議論し(といっても生徒は私一人でしたが)エッセイを書いたり、別のクラスの人を相手に例えば自然派文学についてプレゼンをしたりという非常にユニークな授業でした。事情があり私はこの学校を途中で辞めたのですが、最後までやっておけばよかった…と大人になってから後悔しています。 ----- 誕生日の日は一人でこんなことを考えていましたが、来週の日曜日にはフランス語の試験の続き(口頭試験)があるので、今週はその準備に励もうと思います。 ※21日中にアップロードするつもりだったのですが、どういうわけか夜になってひどい頭痛を起こしてしまい、夜の8時頃からこの時間まで寝ていました。考え事をしていると頭痛がすることがごくたまにあるのですが、こういうときは寝るしか直す方法がありません。 #
by coast_starlight
| 2007-10-22 03:42
| 日々の出来事
先日、ある本の『秘すれば花』という箇所を読んでいて、ちょっと引っかかる場所がありました。どういうことが書いてあったかを大ざっぱに纏めると以下の通りです。
①自分の中で消化し切れていない失敗談や苦労話は言うべきではない。消化し切れていて笑い話として話せるのであれば良いが、怒り・悔しさ・情けなさ・恨みなどが残っている状態で告白すべきではない。そういう場合は友人や身内にではなく電話相談などで匿名で相談すべき。 ②友人や身内に自分の弱い部分や醜い部分はあまり見せないほうが良い。自分で消化し切れていない時は、何もかもは言わず、ドロドロした部分は隠しておいて時間が解決してくれるのを待つ。 ③不完全で欠点の多い自分をありのままにさらけ出して認めてもらおうと考えるのは不遜極まりない。できるだけそうした自分を見せないで少しでも良く見せようと努力することが人としての品性を高める。いかに表に出さないよう努力するかが重要。 これを読んでいて「う~ん、例えば自分の親がこういう考えの人だったらちょっと子供としては辛いかも。秘密にしすぎて自分でその辛さが結局消化できずに行動や言動ににじみ出てしまったら『秘すれば花』どころか『秘すればサボテン』になってしまうじゃん。」と思いました。これらは仕事やあらゆる付き合いの場で知り合う人やあまり親しくない親戚には当てはまるかもしれませんが、家族だったらドロドロした部分も受け止めてあげようと努める、そういう自分の懐を広く持つよう努力してあげることが愛じゃないの?と思ってしまいました。もちろんそれに甘えず自分自身で消化できる容量を上げるべく努力することも大事ですが、その容量を超える辛いことだって人生多々あると思います。どこまでが自分自身で消化可能で、どこから先は無理かというその「やばさ」を感じ取る直感を鍛え、全部自分で抱え込まずに、そういう時にしかるべき相手にしかるべき形で助けを求められる能力も同時に大事ではないのかと思いました。本当に辛いときは、品性もへったくれもありません。 家族だけでなく、親戚や友人に対しても、相手が本気で自分に何かを相談したいというシグナルを発していると感じ取れば、可能な限りそれを受け止めるよう努力してきたつもりです(こちらからはよほどのことがない限りは聞かないですが)。逆に、今までの人生を振り返ると、私がそういうことを相手に求めてしまった場合もなくはないので、そういう自分が否定されたような気がして少し落ち込みました。なぜなら、さらけ出すのにだってものすごいエネルギーがいるからです。もちろん相手やタイミングは慎重に選びますが、自分のことをわかって欲しいと思う相手に対してそういう努力をするのってダメなの??という疑問をこの箇所を読んだ後に抱き考え込んでしまいました。 しかし留学生活を振り返ってみると、アメリカ人は著者が挙げたような考えを持つ傾向が強いんじゃないかと思いました。パーティーの場などでいろいろな人と会話しましたが、「まあいろいろあって大変だったけど今はハッピーよ、アハハ」という感じで明るく笑っている人が結構いたのが印象に残っています。それでこちらが「それって笑って流せる話か?」と固まってしまうようなことがあったりして…。その一方でカウンセリングを行うセラピスト(臨床心理士のような人)への需要が多いという現実があります。この現実をどう受け止めればいいのでしょうか? 留学中開講されていたセミナーで、自分の家の家系図をつくって分析することにより今の自分について考えるというものがあったのですが、各参加者の告白話の場では、子供の頃父親が自殺したとか他国から移民してきて苦労したとかいう重たい話が結構あって、そこだけよどんだ空気が漂っていました。過去を冷静に見極めるのは辛いけど、一緒にそのよどんだ空気を共有してくれる仲間がいたほうがいいのだろうな、と思いました。同時に、表も裏も全て受け止められる、そういう懐の広さのある自分を目指したい、と思いました。 #
by coast_starlight
| 2007-10-08 22:13
| 話のネタ
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